舞鶴市にある、
共楽公園✨
ココがポイント
例年4月上旬は桜が咲き乱れ、5月にはツツジ1,200本も咲くので春にはたくさんの人が訪れる✨
昔から公園として市民に親しまれていたけど、太平洋戦争中は軍用地に徴収されて市民の立ち入りができなかった時期もあったそう。
戦後に市民の有志がサクラを植栽し、今ではサクラの名所に🌸
駐車場はどこ?
この公園に行くときに「駐車場..どこ..?」
ってなかなか見つけられなかったのでまずは駐車場について書いておきます。
この坂道を登って行ったところが駐車場なんやけども、Googleマップで共楽公園って入れて行ったら全然この駐車場まで連れてってくれなかった😂笑
この坂道側に背中を見せた景色を載せておくと、、
奥に手作りジェラートのお店 ミカマーレさんが見えるのがお分かりだろうか?
ミカマーレの道路挟んだ向かい側の路地に入っていくって覚えておいたら迷わないと思う🤔
車一台しか上がれない坂を登っていくと、約20台おける駐車場がどん。(無料)
共楽公園を散策
駐車場で車から降りて、坂道を歩いて上がっていくと公園の案内看板が。
まずは左へ行ってみた
看板地点から左へ向かって歩いていくと、
ちょっと休憩できそうなスペースや
桜のデザインのお手洗い。
桜を見ながら更に奥へと歩いて行ったら広場に到着↓
ここでお弁当食べてる子連れの人たちの姿もあって、お花見場所として使われてるみたい☺️
この広場には大きな鎮魂碑が建ってて、
昭和53年に建てられたと書いてある。
碑の由来
明治三十四年舞鶴海軍工廠開廠以来の
殉職者の御霊を祀った招魂碑が、共楽
公園山上に建立されたのは大正八年の
ことであり爾来春秋の彼岸には盛大な
招魂祭が営まれていた。 しかしなが
ら、太平洋戦争も熾烈となるに及んで
青銅製の碑は供出され、台座のみが
往時をしのばせるにいたった。
戦争末期、舞鶴軍港もしばしば空襲を
受けた。 中でも昭和二十年七月二十
九日、工廠に投下されたただ一発の爆弾
は、約百名の生命を一瞬のうちに奪い
去った。 その中には紅顔の動員学徒
男女十九名も含まれていた。
憶うだに痛恨の極みである。
被爆の真相がようやく明らかになるに
及び有志相はかり初の空襲殉職者合同
慰霊祭を雲門寺において営んだのは昭和
五十二年七月二十九日のこと、その日
期せずして鎮魂碑建立の願いが燃え
上った。
かくして、かつての招魂碑復元の願い
と空襲犠牲者ならびに工廠より内外に
派遣され武運つたなく戦没された英霊
の碑建立の願いと、これらを打って一丸
とした殉職者鎮魂碑を、場所も旧工廠
を俯瞰するゆかりの地に礎も固く建立
することとした。
ここから五老岳公園ハイキングコースとなってるみたいなので引き返すことに。
案内板へ戻って今度は右側へ
右側へ進んでいくと見えてくるのが
しゃぼん玉を吹き出すという日時計。
下はただの緑かと思いきやよく見ると芝桜!
ここも一面ピンクになるんだろうな〜
ここには忠魂碑。
アロハ桜
この公園の中にはアロハ桜と呼ばれるものがあるらしい。どれがアロハ桜なのかは分からんかったけど、説明文を載せておきます🙏
この共楽公園に植わる木々の中に「アロハ桜」と呼ばれる古い桜があります。
その桜は第二次世界大戦の終結後の1950年に、ハワイ出身日系アメリカ兵士が舞鶴市民と協力し植えたものと語り継がれています。
父母の祖国を日本、自らの祖国をアメリカとする日系兵士達は戦争中、人種的偏見からいわれのない差別を受け、苦難の道を歩みました。
戦争が終わった後、この地を訪れた彼らは、日本と日本人を思い素敵な贈り物を残してくれたのです。
そこには、敗戦という苦難の中で生きている日本人を励まし、元気付けたい思いが込められていたのでしょう。
私達は、アロハ桜を贈ってくれたハワイ日系兵への感謝を忘れる事なく、この桜を守り受け継ぐことで、日米の友好と平和への祈りを継承していきます。
公園情報
【住所】京都府舞鶴市余部下
【駐車場】あり(約20台)
【アクセス】
●JR舞鶴線「東舞鶴」駅、「西舞鶴」駅、または京都丹後鉄道宮舞線「西舞鶴」駅から京都交通バスで「中舞鶴」下車
●舞鶴若狭自動車道「舞鶴東」ICから車で15分、または「舞鶴西」ICから車で30分
舞鶴市公式HP